2022年9月23日金曜日

ニューヨークタイムズのペッカ・ハマライネンの記事

 9月にペッカ・ハマライネンの新著『先住民の大陸』が出版されるということで、ニューヨークタイムズで特集記事が掲載されました。

https://www.nytimes.com/2022/09/20/arts/indigenous-continent-pekka-hamalainen.html 

 ハマライネンはコマンチ帝国やラコタに関する非常に優れた研究を行なったことで知られる初期アメリカ先住民史の最重要な歴史家です(テイラーの『先住民vs帝国』の中西部の情報は多くハマライネンが情報源です)。フィンランド人という点も興味深いですが(Max Edling=スウェーデンなど、なぜか最近の初期アメリカ史は北欧の人が多い)、中西部史全般について従来の学説を大きく転換した第一人者の一人であることは間違いないありません。そのハマライネンがヨーロッパ人の北米到来以後の400年を論じたのが本書で、非常に注目すべきでしょう。

https://wwnorton.com/books/9781631496998

  ニューヨークタイムズの記事は、ハマライネンの本に限らず、先住民史ひいてはアメリカ史全体の見直しに関わるもので、非常に刺激的な記事となっています。研究者の批判もしっかり載せていて、さすがという感じです。以下、拙訳を載せておきますので、興味のある方は是非ご覧ください。セトラーコロニアリズムについてもハマライネンは触れています。元の記事は写真や絵も出てくるので、お時間のある人は是非そちらを。

(森)

ニューヨークタイムズ、2022920

 

一人のフィンランド人学者が、われわれがアメリカ史を見る目を変化させることを期待している

 

『先住民の大陸』でペッカ・ハマライネンは、先住民と先住民のパワーを中心に置き、アメリカ史のグランドナラティブを転換させることを考えている。

                     ジェニファー・シュウェッスラー

                     By Jennifer Schuessler

 

アメリカ人ならば、リトルビックホーンでアメリカ軍を撃退したラコタの戦士、クレイジー・ホースや、ネズパースの指導者で、強制移住に対する雄弁な抗議が今でも名高いチーフ・ジョセフの話を知っているであろう。

しかし、どれほどの人が1680年にスペイン人をニューメキシコから追い出す反乱を率いたプエブロの宗教指導者、ポパイPo’payの話を知っているだろうか。あるいは、1710年にペンシルベニア総督と巧みに交渉し、入植者殺害の罪で訴えられた部族民の命を助けたショーニーの首長、オペカOpekaはどうだろうか。

彼らの物語は、フィンランドの歴史家ペッカ・ハマライネンの圧倒的な新著『先住民の大陸:北アメリカをめぐる壮大な戦いIndigenous Continent: The Epic Contest for North America』に掲載されている多くの物語の一つである。そして、彼らは瞬間的に表舞台に現れるものの、ほとんど脚注には記載されることがない。

リバーライト社から火曜日に出版された『先住民の大陸』が目的としているのは、先住民族を犠牲者としてではなく、歴史の流れを大きく形作る強力なアクターとして描き、アメリカ先住民――そしてアメリカ人の――歴史の物語を書き換えることに他ならない。

コマンチやラコタに関して高く評価されている歴史書を執筆したオックスフォード大学のハマライネン教授は、先住民が銃、病原菌、資本主義の猛威の犠牲になるのは避けがたいという「(消えゆく)運命にある」インディアンというフレーズに異議を唱えた最初の学者というわけではない。しかし、彼はこの議論をさらにおし進めている。

ヨーロッパ人入植者とアメリカ先住民の対立は、「4世紀にわたる戦争」であり、「インディアンがしばしば勝利した」と彼は書く。

 『先住民の大陸』は、著名な歴史学者からの推薦も得ており、ニューヨークタイムズ誌のベストセラー『1619プロジェクト』や、デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローの『あらゆるものの夜明け:新たな人類史』のような、既存のパラダイムを打ち破る本となることを目指している。

ジョージア大学の歴史学者であるクラウディオ・サントは、「ペッカは、初期アメリカ史のグランドナラティブの再構成に挑戦している、小規模であるが、現在大きくなりつつある研究者グループの一人である」とEメールで教えてくれた。そして、サントによれば、多くの読者にとって、「最も驚くべき発見は、一見して決着したかと思われる大陸の征服が、決してそうではなかったことであろう」と言う。

それでも、ハマライネンの大胆な主張は、証拠、解釈、強調点をめぐって議論を巻き起こす可能性が高い。そして、この本の背後には、もう一つの危うい問題が横たわっている。誰が、どのように先住民のアメリカの物語を書くべきなのであろうか?

一見したところ、オックスフォード大学で教鞭をとるフィンランド人学者は、その候補者らしくないように見える。先月、ヘルシンキ郊外の別荘からビデオインタビューを受けたハマライネン氏(55)は、多くの人と同じように、幼少期に本や映画で初めてアメリカ先住民に出会ったことを語った。彼は、何かがおかしいと感じたという。

「西部劇はアメリカ先住民を描くときに、とても恐ろしく描くのです」「ここで何が起こっているのだろうか不思議でした」と語る。

彼の最初の著書『コマンチ帝国』は、1750年頃から1850年頃まで南西部を支配していた(20世紀の大半においてハリウッドの西部劇に登場する)が、比較的研究されていなかった遊牧民集団について、膨大な調査に基づく驚くべき新解釈を提示した。2009年に出版されたこの本は、高い評価を得るとともに、専門の歴史家に贈られる最も権威ある賞の一つであるバンクロフト賞をはじめ、数々の賞を受賞した。当時、ハマライネンは、いわゆる「ニューインディアンヒストリー」を生み出している学者たちの一人であった。以後、この分野は爆発的に広がり続けている。

特に植民地時代のアメリカに関しては、アメリカ先住民をアクターとすること、また問いとすることがますます研究に織り込まれるようになっている。今日では、初期アメリカの歴史家は、ヨーロッパ人入植者と先住民との複雑な交流・交渉に焦点を当てると同時に、初期のヨーロッパ系アメリカ人の歴史叙述において、いかに先住民のコミュニティが叙述から排除され、「消えゆく」インディアンという神話が作り上げられたかを論じている。

このように先住民の歴史が主流となっていくことには、論争がないわけではない。近年では、知に関する西洋的様式と先住民的様式の対立の妥当性について、また歴史家が現代の先住民コミュニティと協議する義務があるかどうかについて、激しい論争が起こっている。

ラトガース大学の歴史学者でラコタ/ダコタ出身のジェームソン・スウィートは、「あらゆるバックグラウンドの人々が先住民の歴史を書くことができる」とする。しかし、彼はまた、1960年代と70年代の「レッド・パワー」運動から発展した「先住民研究」の幅広い分野が有している政治的な意義についても重視する。「私たちはこの分野を定着させようとしているのです」とスイートは言う。「これは先住民を顕微鏡の下に置くのことではありません。むしろ主権を保持するといった目標に向かって活動することで、人々を教育することなのです」と付け加える。

ハマライネンは、彼の意図とは別かもしれないが、しばしば高度に専門的な膨大な学術文献を統合しつつ、緻密なアプローチを取る(70ページ以上に及ぶ膨大な脚注に「死にそうになった」と彼は言う)。

本書の読者は、ボストン大虐殺や合衆国憲法といったおなじみの出来事にはほとんど出会わない。また本書では条約や法律に関する分析もあまり行われていない。その代わり、重要なテキストは地図(先住民とヨーロッパ人の両方)である。ハマライネンは、地図は、19世紀になっても「圧倒的で根強い先住民のパワー」によって支配された広大な大陸に対する植民地支配権がいかに脆弱であったかを示していると主張する。

ハマライネンは、ラコタとコマンチに関するこれまでの著書から、馬上での戦いの蹄鉄を打つような描写を含む、多くの材料を用いている。同時に本書では、北東部、ヴァジニア、フロリダ、中西部の先住民に関する研究を綜合している。そして例えばイロコイ(またはHaudenosaunee)連合については、「合衆国よりも歴史的に古く、中心的な存在」と表現するのだ。

ハマライネンは、特に17世紀末の「喪の戦争mourning war」に衝撃を受けたと言う。近年では、複数の学者によって、この戦争は、毛皮貿易のシェアを拡大するためではなく、ヨーロッパ人との接触による天然痘の破壊から立ち直ることを目的として開始されたと考えられている。Haudenosauneeは近隣の部族を攻撃し、ある部族は吸収し、また別の部族は西部へと押し出している。このことをハマライネンは「初期アメリカ史における最初の大規模な西部拡大」と挑発的に呼ぶのである。「一見、盲目的な暴力のように見えます」「しかし、そうではありません。これはスピリチュアルな暴力なのです。そして犠牲者の多くはイロコイの構成員となったのです。イロコイは他の部族をイロコイにするために戦争をしたのです」。

先住民とヨーロッパ人との対立について、ハマライネンは、植民者による暴力的な攻撃は、強さではなく弱さのあらわれであると繰り返し主張している。1890年にウーンデッドニーで約300人のラコタが虐殺されたことさえ、「アメリカの弱さと恐怖のあらわれであった」と彼は断言する。

こうした主張は、大げさであったり、極端に軍事的な対決にフォーカスして(※他の面を矮小化して)いると感じる人もいるかもしれない。『ウォールストリート・ジャーナル』紙の書評で、歴史家のキャサリーン・デュヴァルは、ハマライネンが先住民の歴史を「先住民の男性がヨーロッパ系アメリカ人の男性と戦うという壮大な物語」に仕立て上げ、先住民の行動が女性によって維持されている親族ネットワークに組み込まれていたことについてほとんど触れていないことに疑問を呈している。

そして、1890年代であっけなく幕を閉じた「先住民の大陸」は、大きな疑問を残したままである。この歴史は現在とどのようにつながっているのだろうか?

 この問題は、現在、他の研究者がより正面から取り組んでいる。来春出版予定の、同じく圧倒的な統合的歴史書である『アメリカの再発見:先住民とアメリカ史の解体The Rediscovery of America: Native People and the Unmaking of U. S. History』において、イェール大学の歴史学者ネッド・ブラックホーク(ウエスタンショーショーニ)は、物語を21世紀へと延長するとともに、おなじみの歴史的エピソードをひっくり返している (ある章では、ブラックホークが言う「アメリカ独立の先住民的起源」が語られている)。『先住民の大陸』の草稿を読んだブラックホークは、ハマライネンについて「アメリカ初期西部史の重要な歴史家である。そして彼は誰よりも騎馬技術の問題を研究している」と論じる。「ただ、この本が行なっている通時代的な叙述は、あくまで限定されたものに過ぎない」「特に、アメリカ先住民主権と生活の中心である法律や政策に関する多くのことをしばしば等関視している」とブラックホークは言う。

『先住民の大陸』はもう一つ、物議を醸しそうな概念を使っている。「帝国」である。ハマライネンはコマンチとラコタに関する著書で、これらの部族国家を、「準植民地主義」とでも言えそうな、他の先住民を押しのけ、しばしばヨーロッパ人入植者すら支配したアグレッシブな拡張主義勢力として特徴づけている。

2020年に『ラコタ・アメリカ』が登場したとき、一部のラコタの学者は、ヨーロッパの征服と道徳的に同等としている、あるいはヨーロッパの征服を正当化しているとして、「帝国」という枠組みに異議を唱えた。ラトガース大学のスウィート教授は、The Journal of the Early Republicの書評で、「ヨーロッパ人のセトラーコロニアリズムに対して無罪放免を与える感じがする」と述べている。

 「セトラーコロニアリズム」は、ここのところ、先住民研究そしてそれ以外の分野でも、(論争があるにせよ)広く浸透してきた概念である。しかし『先住民の大陸』にはほとんど登場しない。

 「セトラーコロニアリズムはもちろん起こったことだ」とハマライネンは言う。だが「この用語は少し不用意に使われることがある」。歴史家は、すべてをこの題目の下に置くのではなく、「先住民のコミュニティが対面し、対応せねばならなかった幅の広い植民地的関係により注意を払わならなければならない」と述べる。

帝国という言葉については、そのような「(ヨーロッパ帝国と)共振する力の構造」が異なる時代や場所でどのように発生したかを考えることは、「道徳的に同等だとすることとは同じではない」と言う。

今日、北米には500を超える先住民ネーションが存在する。エピローグでは、オジブワの作家デービッド・トリューの主張が引用されている。1776年以降、ある意味でアメリカは「よりインディアンに」なったのであって、それ以下ではない、と。

  「すべてはこの400年にわたる戦争を振り返るところに始まる」とハマライネンは言う。そして持続的な先住民の抵抗の力にも。「読者には、この歴史の重みを、「先住民の変化する力、そして戦う力」とともに理解してほしい」。


2022年9月14日水曜日

セトラーコロニアリズムと初期アメリカ

  先日出た『アメリカ史研究』45号に掲載された石山徳子さんの「人新世のナラティブとアポカリプスの日常」が射程の広い話だと話題ですが、そこでのキーワードが「セトラーコロニアリズム」です。これはアメリカでも流行している概念で、今年のOAH大会では大会の趣旨にも掲げられ、幾つもパネルが組まれていました。セトラーコロニアリズムは、オーストラリアの人類学者パトリック・ウルフが唱えた概念で、新しい土地に入って来た入植者が、その土地に先住していた人々の存在を抹消し、不可視化していくプロセスであり、そうした歴史から生まれる人々の思考と社会の構造を指す」とされています。現在、アメリカ史の発展を批判的に見直そうという潮流の代表格となっています(週末のアメリカ史学会でもパネルが組まれます)。

 しかしながら、やや初期アメリカ史、特に植民地時代史では歓迎して受け入れられているとは言えないように思います。2019年にWilliam and Mary Quatrterlyでセトラーコロニアリズムの特集が組まれた時も、巻頭言でジェフリー・オストラーとナンシー・シューメイカーは、初期アメリカ研究には同概念を用いた研究はあまり見られず、研究者の同概念の受け入れは「緩慢」ないしは「戸惑い」だと言います。こうした姿勢は批判されるかもしれませんが、ただこれは初期アメリカ史(特に植民地時代史)が保守的だからというわけでは決してなく、この分野特有の事情があります(ちなみに建国期では大いに重視されています)。

 すでに植民地時代史では、公民権運動を経て、1970年代にかなりヨーロッパの植民活動を「征服」として先住民の社会を一方的に破壊していく過程だとする主張がなされました。その筆頭はフランシス・ジェニングスですが、そのほかW.T.へーゲンなどによっても強く主張されました。彼らの議論は日本でも富田虎男さんなどによって紹介され、翻訳もかなりなされています。その結果、ジェニングスの使っていた「(入植者による先住民の)清掃(エスニック・クレンジング)」という言葉は、『「他者」との遭遇』(青木書店)のような概説でも使われるようになりました。初期アメリカ史では、すでにある程度「セトラーコロニアリズム」は浸透していたわけです。むろんだからこそ顔を背ける研究者が多いことをジェイムズ・メレルらの先住民史研究者は厳しく批判しましたが。

 しかしながらジェニングスらの議論にはバーナード・シーハンやジェイムズ・アクステルらの先住民史研究者からも、やや断罪論になっていて、ヨーロッパ人−先住民関係の実態や先住民の主体性を丁寧に見るべきではないかとの批判もなされました。むろんこうした議論にも批判はされましたが、1980年代から(ジェニングスも重要な役割を果たします)90年代には先住民はヨーロッパ人の侵略で一掃されたのではなく、新たな集団形成(エスノジェネシス)やヨーロッパの技術・思想の吸収、外交戦術の駆使などによって、少なくとも独立までは従来考えられていた以上に自立を確保していたと論じられるようになります。有名なリチャード・ホワイトの「ミドルグラウンド」は、こうした先住民のレジリエンスを前提にして、ヨーロッパ人との関係性を見直す概念であるわけです。こうした潮流が発展・定着したのが現在の状況であり、ゆえに研究者は外部から入ってきたセトラー・コロニアリズムに対して「戸惑って」いるのです。実際、上記のWilliam and Mary Quatrterlyの特集の巻頭言でも、オストラーとシューメイカーは、入植者の暴力はあるとしても、実証的な研究に基づく「近年の初期アメリカの先住民史と入植者ー先住民関係史は、いかに先住民諸政体の政治的・経済的パワーが持続していたか、またヨーロッパ人の北アメリカ大陸支配の進行がいかに緩慢で、脆いものであったかを強調している」と述べています。こうした認識には、厳しい対立や緊張も含みながら、長きにわたって発展した初期アメリカ史の学問的状況が背景にあるわけです。

 ただし上記の巻頭言でも書かれているように、セトラーコロニアリズムの問題提起は深く受け止める必要があることは間違いありません。実際、ミドルグラウンドがヨーロッパ中心主義的で、もっと暴力や対立に目を向けるべきという批判も以前からなされています。おそらく、植民地時代について研究者の中で最も真剣にセトラーコロニアリズムの問題提起と向き合ったのは、ダニエル・リクターの次の論文だと思います。ぜひお読みください。

Daniel K. Richter, “His Own, Their Own: Settler Colonialism, Native Peoples, and Imperial Balance of Power in Eastern North America, 1660-1715,” in Ignacio Gallup-Diaz ed.,
 The World of Colonial America: An Atlantic Handbook, Routledge: New York and London, 2017.






 この表紙は1710年にイロコイ五部族連合の代表が(実態はマヒカンなどの小部族の代表)軍事協力の要請でイギリスを訪問したときのもの。イギリスでは彼らは世間に狂騒を起こし、数多くのイラスト、絵画が描かれました。コリーは『虜囚』でこの絵の分析を行なっています(植民地人=セトラーとイギリス人=帝国との先住民認識の違い)。

(森)

2022年9月4日日曜日

文献紹介:軍事からみた大西洋帝国史

 

 森先生より、先住民研究の最新知見と『先住民VS帝国』書評から、「海」の歴史と「陸」とが交錯する歴史像を提供いただきました。

 諸ヨーロッパ列強の植民者勢力、そして先住民諸部族の共存とせめぎ合いは、「陸」のうえのみならず「海」の上でも行われていたというのに驚きます。先住民たちは独自の貨幣流通のみならず、毛皮交易の交換目的で貿易市場に参入しようとし、さらには操船技術を学んで航海にでようとしたとは…。どうしても帝国ないしヨーロッパ列強を主役とし、先住民を「征服される側」のマイノリティとして捉えてしまいそうになる自己認識を改め、「Vast Early America」を多様な主体が共存する場として捉えるべきだと、示唆をいただける内容でした(このあたりの研究史を勉強する際、森先生書評と鰐渕先生の「ポスト共和主義パラダイム期」論文も大変参考になりました)。

 こういった先住民研究とは離れてしまいますが、同じ海の視点ということで、今回は「軍事からみた大西洋帝国史」に関する二次文献を一つ紹介させていただきます。自身の整理のためにも前提から書きましたが、皆さんご存知のところも多いと思うので、間違っているところや足りない視点があれば色々ご指摘いただければ幸甚です。

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 さかのぼること約300年前、名誉革命を経て議会優位の体制を築き、借金と税金によって巨額の戦費を捻出可能にして、他列強に比べると先駆的に「財政軍事国家」ブリテンは、他国よりもスムーズに戦争を遂行できたとされています。当時ブリテンが優先的に投資したのは、いわずもがな海軍です。船のドッグや駐屯基地など、巨額の戦費を背景に次々と整備されていきます。この海軍こそが「第一次帝国」を商業面・軍事面をささえた「腱」であるということは、周知の通りだと存じます。

 しかし、こういったインフラ整備だけでは軍艦は動きません。荒波の中で揺れに耐えながら、帆船のトップセイルを操って目的地にたどり着くには、熟練したプロの船乗りの技術が必要不可欠でした。

 そこでブリテンが依存したとされるリクルート制度が、強制徴募(impressment)です。そのリクルート方法は、プレスギャング(強制徴募隊)とよばれる海軍の士官数人が、港湾都市の酒場や近海の船上で、無理やり船の漕ぎ手となりえる船乗りたちを誘拐していくというものでした。その過程で、ギャングたちによる強引な徴募、あるいは船乗りたちに抵抗など暴力は絶えなかったといいます。



 歴史学ではかつてマイナーとされてきた軍事にかかわる研究ですが、1980年代以降、イギリスの学会では海軍行政史の大家N. A. M. ロジャーらによって、「新しい海軍史」が立ち上げられると、社会史の流行とも相まって、「軍隊と社会」を探求する研究が勃興していきます。そのなかで、この強制徴募も研究されてきました。

 ちなみに日本語圏では、このロジャーの研究を引きながら、大家川北稔さんが先駆的に『民衆の大英帝国』のなかでこの強制徴募を詳細に論じています。この叙述でブリテン海軍のイングランドにおける強制徴募をご存知の方も多いと存じます。



 しかしながら、海軍が船乗りたちを誘拐したのは、本国を出航するまえにイングランド沿岸だけではありませんでした。航海法の「遵守」を目指しつつ、他国の軍隊や私掠船、はたまた海賊から商業航路を守りつつ、さらに戦争のために軍艦の人員を確保するには、とくに大西洋をまたぐ「帝国戦争」においては本国のみの徴募では不十分でした。そこで海軍は北米の港湾都市や西インド諸島の海上でも徴募を行ったといいます。それに対して、各地で船乗りたち民衆が立ち上がり、反強制徴募暴動を数々引き起こしました。

 こういった北米や西インドでの事例は、従来のイギリス圏での研究では十分にとりあげられず、アメリカ史においてはレミッシュやレディカーなど労働運動史の抵抗の原因として前景化されることがほとんどでした。 

 そういった諸先行研究の成果をバランスよくまとめ上げた恐ろしいほどの実証研究がDenver BrunsmanによるEvil Necessityです。ブランズマンは、強制徴募の制度の整理(中世のマグナカルタの話からはじまります)に力点を置きつつ、西インド、北米、イングランドの三地域を中心に、大西洋圏の諸暴動や風刺画などの事例も取り上げながら「制度・慣習の構築過程」を描くことで、ブリテン大西洋帝国史の観点から軍事史と、文化史・暴動史を接合しました。

          


 ブランズマンは、当時の知識人たちが「自由」を標榜した帝国こそ、強制徴募という「必要悪」に支えられていたとアイロニックに描き、この制度こそ奴隷制や年季奉公人制度と並ぶ「帝国の矛盾」をあらわしたものだと主張しています。

 社会史や文化史の蓄積を活かしつつ、「全体像」(あくまでブリテン帝国世界だが)を提示しようとする姿勢はリン・ハントの主張する「下からのグローバル・ヒストリー」を彷彿とさせる手法です。個人に飽き足らず、強制徴募に関わる詳細な実態をひとりでまとめあげた本書の成果には脱帽です。

 北米、イングランド、西インドにのみ足らず、カナダでの事例なども取り上げるブランズマンですが、単に実証を重ねるだけでなく、強制徴募という「制度」をダイナミックに描き、大西洋の各地域において、現地の事情にあわせた「諸強制徴募文化impressment cultures」が形成される過程を描いているところも評価できます。

 さらにいえば、ブランズマンの著作は、暴動史ないし民衆運動史を広いパースペクティブの中に置いたという点でいえば、柴田三千雄さんの『近代世界と民衆運動』を彷彿とさせます。ブランズマンの中の反強制徴募暴動の理解は、徴募命令書(press warrant)にもとづいた海軍士官による強制徴募の日々の実践が船乗りたちとの「合意」のもと「諸強制徴募文化」を構築していき、お互いの「合意」から外れた徴募が行われたときに発生するというものです。この理解を西インド、北米、イングランドの三地点の強制徴募実践と暴動の事例から論証しています。

 例えば私がもっとも面白いと感じた事例のひとつは、西インドにおける「徴募の慣習」です。イングランドでは、強制徴募が商業活動に支障をきたさないよう、アウトバウンド船(これから航海に出る船)ではなく、インバウンド船(貿易を終えて帰港する船)のみ徴募するよう、上官からプレスギャングに命令書が下されます。この徴募の文化は北米にも同様に見られるのですが、なんとジャマイカなどの西インド諸島では事情がうって変わって、逆にアウトバウンド船のみの徴募に限られます。

 それはなぜか。西インド諸島といえば、川北さんの『工業化の歴史的前提』などで有名なように、大西洋帝国を支えたプランテーションが存在します。これにより、ジャマイカやバルバドスに帰港する船のおおくが「奴隷船」だという事実が関係していきます。なんと海軍は、アフリカからの船旅を終えて、貴重な労働力である「積み荷」をのせた船から徴募しないよう、インバウンド船の徴募を禁止したのです。

 また、西インド特有の慣習として挙げられるのはもう一つ、「私掠船からの徴募の禁止」です。薩摩真介さんの研究で指摘されているように、西インド諸島は財政軍事国家の軍事的経済的「腱」(商船の保護、敵船の攻撃など)として私掠船が機能している場所でした。だからこそ海軍も私掠船に気を遣いながら徴募を行う必要があり、こういった慣習が生まれます。西インドでの私掠船の影響力はとても大きく、この慣習から外れると、私掠船の乗組員と現地勢力が結託して、激しい反強制徴募暴動(海軍士官を誘拐して軟禁するなど)を引き起こしました。

 このように、奴隷制と強制徴募がうまく「共存」しながら、現地勢力とのせめぎ合いのなかでうまく慣習を構築しながら、枯渇した労働力を暴力や強制のもとに捻出し、なんとか保たれていた帝国の歴史像は、「自由の国ブリテン」を標榜していた知識人たちの言説と比べると非常に皮肉なものです。

 一見「完璧」とも思えるこの研究と日々対峙しているのですが、すでに近年の研究で指摘されている論点は①アメリカ革命史との接続、②個人の視点の不足(扱う史料の問題でもある)の二点です。ブリテン帝国史、法制度史の観点について、独立との連続性や「下からの視点」を大事にする研究者たちから指摘されています。

 この2点に取り組んだ研究もすでに存在するのですが、今一度の論点は大西洋帝国とアメリカ革命の関係だと考えています。果たして、大西洋帝国はアメリカ合衆国史の前史でよいのか。国民国家の制度が当たり前となった今現在から遡及的に「解釈」をすることしかできないわれわれの限界を踏まえつつも、独立以前の世界を考えることはいまだに重要ではないでしょうか。この点に関して、史学史的な視点でいうと、ブランズマンの単著と同年にオックスフォードのシリーズでBritish North America in the Seventeenth and Eighteenth Centuriesが刊行されているのも重要だと思います。

 これに加え、森先生や鰐渕先生のお話も踏まえると、先住民と軍事の関係を踏まえて強制徴募観連の行政史料を読みなおすと何かみえてきそうな気がしています。例えば1696年のマサチューセッツMaritime関連の行政文書では、海軍が「indian youth」と強制徴募された住民とを軍艦に閉じ込めていたことに関する書簡が、マサチューセッツ行政から海軍士官宛てに出されていました。

 ちなみにブランズマンは法制史的な観点の「イギリス化」論で有名なJohn Murrinの影響を受けている(マリンはブランズマンの師匠!)ようで、中近世イングランドと初期アメリカの制度的連続性を踏まえている点が面白いです。遠藤寛文先生も論稿で触れられていますが、2010年の論文では、建国期アメリカにおいて、米英戦争中にブリテン海軍がアメリカに住む人々を強制徴募しようとするから、それに対抗して政府は「アメリカ市民権」を創出した…といった議論を展開しており、アメリカ合衆国成立の時期、ないしそのナショナリズムないしネイションの成立過程を軍事的折衝の現場と制度の問題から論じる視点が面白いです。

 近年の日本語圏ではグローバル・ヒストリーの影響もあり、「脱西欧史観」の風潮のなかで西欧からみた「東」(中・東欧やアジアなど)との関係を考える研究が隆盛しておりますが、ユーラシア大陸や地中海における諸列強の戦争の時代を「Vast early America」の戦争から見直すことは依然として重要だと思います。これは日本の西洋史学会では意外と見過ごされているので、高校で「歴史総合」「世界史探究」を教えようと志している私としては、西欧を「両端」からはさんで脱構築していくような視点を忘れないようにしたいところです。

 ブランズマンも、「イギリス化」論集も、オックスフォードも、どれも重厚な著作で読むだけで修士2年が終わりそうな今日この頃です…。

 先日、中澤達哉先生の集中講義とシンポジウム(礫岩国家と「王のいる共和政」に関するお話)を拝聴したのですが、中澤先生や森先生のお話を聞いていると、どうもブランズマンの著作は複合国家・礫岩国家論と接合可能性がありそうです(アメリカやイギリスの学会ではもうそのことは自明となっていて、現場での交渉の議論になっているのかもしれませんが)。

(九大修士2年 高橋)

主要英語参考文献

Brunsman, A. D. 2007: “The Knowles Atlantic Impressment Riots of the 1740s”, Early American Studies, Vol. 5, No. 2, pp. 324-366.

Brunsman, A. D. 2010: "Subjects vs. Citizens: Impressment and Identity in the Anglo-American Atlantic", Journal of the Early Republic, 30, pp. 557-586.

Brunsman, A. D. 2013: The Evil Necessity: British Naval Impressment in the Eighteenth-Century Atlantic World, Charlottesville.

Foster, S. (ed.) 2013: British North America in the Seventeenth and Eighteenth Centuries, Oxford.

Gallup-Diaz, I., Shankman, A., & Silverman, D. J. (eds.) 2015: Anglicizing America: Empire, Revolution, Republic, Pennsylvania. ⇦ブランズマンの師匠マリンへの献呈論集です。ブランズマンほか、プランテーションの制度的前史としてイングランドの徒弟制やservantを位置づけている論稿なども面白いです。マリンの弟子はシルバーマンやプランクなど、並々ならぬ面子が集まっています。

Lemisch, J. 1968: “Jack Tar in the Streets: Merchant Seamen in the Politics of Revolutionary America”, The William and Mary Quarterly, Vol. 25, No. 3, pp. 371- 407.

Rediker, M. & Linebaugh, P. 1990: “The Many-Headed hydra: Sailors, Slaves, and the Atlantic Working Class in the Eighteenth Century”, Historical Sociology, Vol. 3, Issue 3, pp. 225-252.

Roger, N. A. M. 1986: The Wooden World: An Anatomy of the Georgian Navy, London.

Roger, N. A. M. 2011: “From the ‘military revolution’ to the ‘fiscal-naval state’”, Journal for Maritime Research, Vol. 13, Issue 2, pp. 119-128.

Rogers, N. 2007: The Press Gang: Naval Impressment and its Opponents in Georgian Britain, London.

⇦触れませんでしたが、「暴力」の観点から強制徴募についてまとめ、海軍行政史に収斂しがちで静態的なロジャーの視点を批判したものです(名前が一緒でややこしい)。大西洋の暴動について触れている章もあります。ブリテン史の学会だとこちらが有名なようですが、まだ位置づけとブランズマン研究との差異が整理できていません(泣)。